三日目?

 雨が降りそうなので図書館には行かないことにした。昼飯を食ったら、勉強しよう…家でできるかな?

六時間後

 結局ろくすっぽできなかった。数学しかやってない。しかもその数学すら無様な内容。やっぱり音楽聴きながら勉強とか無理だ。知らず知らず足踏みしてたり、口でさえずったりしてしまう。明日はまた図書館に行こう。ていうかこのあとパソコン落としたらまた勉強する。仕切り直しと言うことで。

BECK

 十九巻まで読んだ。益岡弘美萌え。あと、アルバムジャケットのパロディが面白い。ニルヴァーナとかラモーンズとか、ボブ・ディラン、ドアーズ…作者もこれを書くのは楽しいんじゃないかな。
 ヒロトマーシーが出てきたのにはうけた。ヒロちゃんとマーちゃんって、そのまんまだよ! というわけで久しぶりにブルーハーツの一枚目を聴いた。良かったよ。ブルーハーツに関しては、ハマる→小馬鹿にする→ハマるを繰り返してるんだけどね。ちなみに今日はこれを聴きながら勉強していた。あと、クイーンのオペラ座の夜。前述の通りこれでは勉強できないよ…。
 最後に。力也君がいい人っぽく扱われているのには苦笑。

徒然なるままに

 日はやや西に傾いている時刻だったが、明かりは薄く、灰色の雲が空を埋め尽くしていた。かといって雨が降るときほど薄暗いわけではなく、光量の薄い不思議な空間だった。甘いミルクが窒素に取って代わったような気がした。
 俺はこたつに入り、顔だけ出して天井を眺めていた。ただ呆然と白い地の天井を見入っていた。非常に不思議な気持ちで。ずっとこのままだったらいいのにと思う。永遠にこのままだったら俺は幸せだ。このような空間に充足感を覚えるのは、端から見たら不気味に思うだろう。もし他人がそんなことを言い出したら俺でもそう思うかもしれない。しかしこの薄明るい夢のような空間に意識を漂わせるのはとても落ち着くのだ。不思議だが、やってみればわかる。
 しばらく意識を漂わせると、ふと死ぬことについて考えた。常普段前向きに行動しているつもりだが、たまに死んでもいいなと思うのだ。周期を迎えたのだろう。俺には躁鬱の周期がある。鬱な時は大体生死について考える。しかし躁鬱の激しくない人でも死ぬことについて考えるのだから、それは人間の生理現象なのかもしれない。
 死んでもいいと言っても、仮にショットガンが手元にあったとして、頭に突きつけて引き金を引けるとは全く思わない。カート・コバーンはそうやって死んだ。俺はその時彼が何を思っていたのかを知りたい。引き金を引くときの心境はどのようなものだろうか。原子爆弾が光を放つ瞬間のような、激しい昂揚に支配されているのだろうか。おそらくはそうであろう。しかしそれはあくまで想像だ。実際はその日の朝ご飯のことを思い浮かべて死ぬのかもしれないし、安らぎを持って死ぬのかもしれない。しかも一つではなく多種多様の心境があるのだろう。結局分からぬ。自分が何を思って死ぬのかは引き金を引くときでなければ分からぬ。
 俺が死にたくないのは、何を思うのかが分からないからなのかもしれない。限りなき絶望が苦痛と共に自分を取り巻くのかもしれない。冒険心がない、と言うと、自殺者は冒険家ということになってしまう。自殺者の大半は逃亡者なのだから、冒険家とは言い難い。
 俺は得体の知れぬ不安によって逃げ出さずに済むのだから、臆病であることに感謝しなければならない。そう、俺は臆病だ。臆病者でいい。この残酷で住みにくい世界にしがみついて、振り落とされないようにしていけばいい。臆病風に吹かれれば逃げ出さずに済む。
 反発心こそがエネルギーだ。反抗こそが健康的で、抑圧は病的なのだ。俺がこれから何を思って生きていけばいいのか、分かった気がする。あいつらに対する反抗心こそが俺を動かしてくれる。あいつらとは、あの羞恥心のない野蛮な阿呆どものことだ。あいつらのようにはなりたくない。そう思うだけで、明日も健康で生きていける気がする。
 夢が覚めてきた。部屋が急に暗くなり始めて、外では雨が降り始めた。今俺がすべきことは庭に干してある洗濯物を取り込むこと。濡れないうちに、速く…。