ひどい喪失感

 「ライブハウス側の手際が悪すぎ」とか文句を書いたり、「一桁台に来たはずなのに入場は百番台になっていた」ということをポルナレフアスキーアートで面白おかしくしたり、「僕の人生で最悪に嫌いな奴を見かけた。カルト宗教に入信したら神様が天罰を下してくれるかな(笑)」ってちょっと本気な冗談を悪意満々に殴りつけたりしようと思った。ライブが始まる前までは。
 the pillowsのライブは歌も演奏も格好良くて、小話なんかも面白くて凄く盛り上がった。僕も跳びはね手を振り、帰りの電車で両足をつって翌日には軽い筋肉痛になった。でもライブが始まってから僕の心は、その身振り手振りと対照的に暗く沈んでいた。大好きなバンドでさえこの程度か、と思った。ただでかい音を鳴らして、客は信徒の如く熱狂する。それだけだ。音楽の素晴らしさなど微塵も無かった。爆音の中おしくらまんじゅうしても感動するわけないだろ、って話で。こうなるとロックへの失望感が頭をもたげる。
 僕はロックを素晴らしいものだと考えていた。既成のものをぶっ壊して新しく再構築する、それは創作的で素晴らしい音楽だと思っていた。だから過去にしがみつくクラシックは綺麗な音に感動しつつも軽蔑していた。何も作らないのに芸術家面して、今を駆け抜ける音楽を小馬鹿にしているクラシック奏者どもを憎んでいた。でもロックは、蓋を開けてみればただでかい音を鳴らすしか能のない馬鹿げた音楽だった。そんなものを有り難がる奴等こそ軽蔑すべきだ。何がロックは素晴らしいだ、正しいだ。僕もまんまと騙されていた。録音芸術としてのロックが僕を詐欺した。緻密な構成、素晴らしい音響効果、音の調和、そういうものが録音されたものの中には宿っている。でも所詮飾り物だ。生演奏させたらでかい音を出すしかない。調和だの旋律だのは脆弱すぎてシャボン玉のように消えてしまう。ただ音がでかいだけのロックなど滅びてしまえばいい。前進しないクラシックの方が何百倍も素晴らしいとさえ思う。
 例えるにロックはハンバーガーの様なものだと思う。作る手間も、味も、そんなものだろう。だからロックがいかに素晴らしいと言ってもそれは美味いハンバーガー程度の価値なのだ。いい年した大人が好きな食べ物を聞かれてハンバーガーなどと言えるだろうか? とても恥ずかしくて言えない。僕が大好きだったマクドナルドのてりやきバーガーを卒業したときを思い出す。いつまでもこんなもので満足していてはいけないという冷めた感情が甦ってくる。ジャンプを卒業したときにもこんな気持ちだった。てりやきバーガーは十三で、ジャンプは十五で卒業した。ロックは十八で卒業させていただく。そろそろ小粋なレストランで家庭的な美食を味わったり、フルコースを食べてみたい年頃なのだ。


 ライブが終わった直後の気持ちを素直に偽らずに書いたつもりだけど、何で僕がここまで沈んでしまったか。多分バンドのせいじゃなくて、僕の音楽に接する態度に因るのだと思う。はっきり言って僕は、他人と同時に感動することが出来ない人間だ。僕が感動する時はいつも一人だ。友達と映画を見て心から感動したことなど無い。音楽だってそうだ。ましてや赤の他人とおしくらまんじゅうして感動できるだろうか。終わった後、余韻に浸る間もなく帰り始める連中に足並みを揃えなければならないような環境でできるだろうか。できっこない。僕にとっての音楽は一人で味わうものだ。自分しかいない空間で音を聴くのが至極の楽しみ。だから他人と一緒に感動できる人とは全く違っている。
 そういうわけで、the pillowsのライブを楽しんだ方にはあんなことを書いて申し訳ない。僕が嫌いになったロックの範疇ではかなり良くできたライブでした。僕が嫌いなものが好きだったら、楽しめると思います。
 申し訳ないと言いつつも、やはりロックへの失望は覆らない。生のロックは美しくないし、録音したものは女が化粧をするようなもので飾り気に満ちている。少なくとも電子の力でごり押しするような野蛮な音楽はもうこりごりだ。それでも、これからもロックは聴くんだろうけど―持っているCDがそればかりだから―、ロックに分類はされてもロックらしくないような音楽を聴きたいと思っている。歪んだギターだけが取り柄のような音楽からは離れたい。大学ではアコースティックな音楽に傾倒できたらいいなと思っている。